介護職だった私が掃除のおばちゃんにもらったもの

ポロシャツ写真 介護

私は、介護職として10年以上働いている、男性のベテラン介護士です。

勤め先は、特別養護老人ホーム。

毎日、食事。

排泄。

入浴。

記録。

コール対応。

気づけば、息をする間もなく時間が消えていく。

「今日も一日、戦ったな……」

そう思う頃には、もう次の業務が目の前にある。

それでも、そんな慌ただしい日々の中で。

私の心を、ふっとほどいてくれる人がいました。

掃除のおばちゃんです。

――“おばちゃん”と呼んでいるけれど。

年齢は、75歳。

立派に人生の先輩です。

体は小さくて、痩せていて。

風が吹いたら飛んでいきそうなのに、なぜか元気だけは誰にも負けない。

廊下で会うたびに、笑いながらこう言うんです。

「私とほとんど同じ歳の人が、ここで寝たきりになってるの見るとねぇ……人生ってほんと、わからんよねぇ。」

その言葉が、妙に胸に残る。

利用者さんと同じ世代なのに、彼女は毎日ここで働いている。

“老い”の現実の、ど真ん中に立ちながら。

それでも、軽やかに笑う。

私はその強さに、何度も救われていました。

ある日のことです。

忙しく動き回る私に、廊下の向こうから手が振られました。

「ちょっと、こっちこっしゃい。」

掃除のおばちゃんでした。

小さな体で、やたら大きく手を振っている。

まるで、空港で家族を見送る人みたいに。

(え、なにごとだろう。)

何か事故でも。

転倒でも。

クレームでも。

一瞬で頭の中が“介護職モード”に切り替わります。

私は小走りでおばちゃんのところへ行きました。

「どうしました?」

するとおばちゃんは、少し困った顔で言いました。

「ちょっと今、手が濡れてて出せんのよ。」

「出せない?」

「だから、ちょっとここ。」

そう言って、おばちゃんは自分の胸のあたりを指さしたんです。

私は反射的に、二度見しました。

胸。

そう、胸。

正確に言うなら――ポロシャツの胸ポケット。

おばちゃんは続けます。

「そこに入ってるの、取って。」

……取って?

(え、取って?)

(ここから?)

私は一瞬、時間が止まりました。

いや、冷静に整理しよう。

相手は75歳。

痩せていて、胸はほぼ平ら。

でも。

でも、女性は女性。

男性の私が。

女性の胸ポケットに。

手を入れる。

……いやいやいや。

ここ、職場。

特養。

コンプライアンス。

倫理。

私の脳内に、研修資料のスライドが走馬灯のように流れました。

(“不適切な身体接触に注意”)

(“利用者・職員間の距離感”)

(“誤解を招く行動は避ける”)

私は固まったまま、数秒。

するとおばちゃんが、畳みかけてきました。

「早くして。」

「手、濡れてるから私じゃ出せんのよ。」

急かされるほど、私の動きは遅くなる。

(いや、でも……)

(でもさ……)

悩む私の顔を見て、おばちゃんは少し眉を上げました。

「何しとるの。」

「早くしてって言うとるでしょ。」

――怖い。

この人、体は小さいのに圧は大きい。

私は観念しました。

「……わかりました。」

もう、なるようになれ。

私は“胸に触れない”という一点だけに全集中しながら、ゆっくりとポケットへ手を入れました。

すると。

ガサッ。

何かがこすれる音。

(うわ、音がやばい。)

(誰か見てたら誤解されるやつ。)

私は、息を止めて。

胸を避けるように。

指先だけで。

そーっと、そーっと、つまみ上げました。

……取れた。

私はすぐに手を引き抜いて、握った手を開きました。

そこにあったのは。

――特濃ミルクの飴。

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一粒。

まっ白で、つやつやの。

あの、舐めたら最後、口の中が“濃厚ミルク牧場”になるやつ。

私は思わず言いました。

「……これ、ですか?」

おばちゃんは、何事もなかったように頷きました。

「そうそう、それそれ。」

私は拍子抜けして笑いそうになりながら、でも同時に。

胸の奥が、ちょっとだけ温かくなったんです。

忙しさでカサカサになっていた心に。

ミルク飴みたいな、甘いものがポンと置かれた気がしました。

そして、おばちゃんはさらっと言いました。

「ほら、あんた最近顔が険しいけん。」

「飴でも舐めて、ちょっと口の中だけでも甘くしとき。」

私は、その言葉にうまく返事ができませんでした。

笑ってごまかしながら、飴をポケットに入れました。

たった一粒の飴。

なのに、不思議と背中が軽くなる。

その日の私は、いつもより少しだけ優しく。

利用者さんに声をかけられた気がします。

――それからというもの。

私は忙しくて余裕がなくなると、ふと思い出します。

「胸ポケットに手を突っ込んでまで渡された、特濃ミルク飴」のことを。

そして、心の中でこう思うんです。

(この仕事、しんどいけど。)

(こういう“甘さ”があるから、続けられるんだよな。)

飴は溶ける。

でも。

あの日の気持ちは、今も溶けずに残っています。

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