「一緒に寝たい」――徘徊する人の本音

男性どうしで横になっている姿 介護

私は特別養護老人ホームで、介護職として10年働いてきました。

入浴。

排泄。

食事。

毎日が目まぐるしく、気づけば一日が終わっています。

それでも、ふとした瞬間に思い出してしまう利用者さんがいます。

もう亡くなられた、 Hさんです。

今になって思えば、本当に手のかかる方でした。

でも、手がかかったぶんだけ、心に深く残ってしまうのです。

Hさんは、いつも歩行器を押して館内を動いていました。

「散歩」というより、周りからは「徘徊」と呼ばれることの方が多かったと思います。

朝から晩まで、廊下の角を曲がり、同じ場所を行ったり来たりしていました。

しばらく歩いていたかと思うと、ふっと自室のベッドに横になって眠っている。

けれどそれも長くは続かず、またむくりと起き上がって歩行器を押し始める。

そんな毎日でした。

職員側としては、転倒のリスクもあるし、目が離せない。

夜勤のときは特に、神経がすり減る利用者さんでした。

その日も私は夜勤でした。

館内が静まり返り、ナースコールの音が遠くに響く時間帯。

いつもの Hさんなら、夜中でも歩行器の音が「コト、コト」と廊下に響くはずです。

でもその夜は違いました。

Hさんは自室で、ベッドに横になって眠っていたのです。

呼吸も落ち着いていて、表情も穏やかでした。

「今日は眠たい日なんだな」

私は少し肩の力が抜けて、ほっとしました。

夜勤が穏やかに進むだけで、心が軽くなることを私は知っています。

数時間が経ち、定時の見回りの時間になりました。

私は懐中電灯を手に、廊下を静かに歩きます。

居室の扉を少し開けて、呼吸や体勢を確認する。

いわば“生存確認”のような大切な巡回です。

そして、 Hさんの居室を覗いた瞬間。

ベッドが、空でした。

胸の奥が、ひゅっと冷たくなりました。

「え、いない……?」

さっきまで寝ていたはずなのに。

歩行器の音も聞こえない。

嫌な予感がして、私は館内を見回りながら探し始めました。

トイレか。

談話室か。

廊下の隅か。

転倒していないか。

どこかで座り込んでいないか。

夜勤の時間に“いない”という事実は、それだけで心臓に悪いのです。

しばらく探して、私はある居室の前で足を止めました。

Hさんの部屋の、真正面。

向かいの居室です。

扉の隙間から、かすかな寝息が聞こえました。

恐る恐る覗くと、そこにいたのは——

Hさんでした。

しかも、向かいの利用者さんと一緒のベッドで、ぴったり寄り添うように眠っていたのです。

私は思わず息をのみました。

「え……なんでここに……?」

頭が追いつきませんでした。

でもすぐに、状況が理解できました。

自室から歩行器を使って、まっすぐ廊下を渡る。

真正面の部屋に入り、ベッドに横になる。

ただ、それだけの行動。

それなのに、胸がざわついたのは、相手が男性利用者さんだったからです。

男同士で同じベッド。

誤解を生む可能性もあるし、本人たちの尊厳や安全面もある。

職員としては放置できません。

私は小さな声で Hさんに声をかけました。

「 Hさん、起きれますか。自分のお部屋に戻りましょう」

眠そうに目を開けた Hさんは、子どもみたいにぼんやりしていました。

何か言い訳をするでもなく、ただ黙って体を起こし、歩行器に手をかけました。

私は付き添いながら、元の居室へ戻しました。

布団をかけ、体勢を整える。

「ここで寝ましょうね」

そう言って扉を閉めたとき、少しだけ安心しました。

——でも。

しばらくして、嫌な予感がしてまた覗きに行くと。

Hさんの部屋は、また空になっていました。

背中がぞわっとしました。

私は急いで向かいの居室へ向かいます。

そして扉を開けた瞬間、やっぱり。

Hさんはまた、同じ男性利用者さんの隣で眠っていました。

しかも今度は、さっきよりも自然な顔で。

まるで「ここが自分の居場所だ」と言うように。

私はその場で立ち尽くしました。

普段の Hさんは、夜中に歩いてばかりで、なかなか寝ない。

職員を呼んで怒ったり、不安をぶつけたり、落ち着かない日も多い。

なのに。

この夜だけは、驚くほどぐっすり眠っている。

呼吸が深く、体が緩んでいるのが分かりました。

ただ“誰かの隣”にいるだけで。

そのとき、胸の奥に、言葉にならないものが込み上げてきました。

私はずっと「徘徊を止めなければ」「安全を守らなければ」と考えていました。

でも、 Hさんは。

歩きたかったわけじゃないのかもしれない。

眠れなかったわけじゃないのかもしれない。

ただ、寂しかったのかもしれない。

夜の静けさの中で、ひとりのベッドが怖かったのかもしれない。

誰かの体温が、必要だったのかもしれない。

もちろん、介護施設にはルールがある。

安全や尊厳を守るために、職員が判断しなければならないこともある。

だけどあの夜、私は初めて気づいたのです。

「問題行動」に見えていたものの奥に、

言葉にできない“さみしさ”が隠れていることがあるのだと。

私はその後も、 Hさんを自室へ戻しました。

職員として、そうするしかありませんでした。

けれど、戻しながら思っていました。

本当は、ただ。

誰かと一緒に、眠りたかっただけなのではないか、と。

そして私は、あのぬくもりを求める背中を、今でも忘れられません。

人は最後まで、ひとりでいたくないのかもしれない。

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