夜のホールは、いつも同じ匂いがした。
消毒液と、タバコと、妙に甘い空調の匂い。
その匂いを吸い込むと、頭の中が静かになる。
静かになる、というより——何も考えなくて済む。
私は、そういう場所に、ずっと逃げていた。
1
最初は遊びだった。
仕事帰りに千円だけ。
光ったらラッキー、光らなければ帰る。
それがいつからか、千円が二千円になり、五千円になり、気づけば一万円になっていた。
理由はいくらでもあった。
上司の言葉。
家の空気。
自分の情けなさ。
そして何より、財布の中の寂しさ。
勝てば少しだけ、自分が正しい気がした。
光れば、許された気がした。
2
私はジャグラー島が好きだった。
あの島は、派手じゃない。
爆音も、煽りもない。
ただ、静かに光る。
光るときは、何の前触れもなく光る。
それが、人生みたいだと思った。
期待しているときには来ないくせに、忘れたころに来る。
ペカリ。
その一瞬の青白い光に、私は何度も救われた気になった。
「救われた気になった」だけだ。
実際は、救われていない。
ホールを出れば、同じ現実が待っている。
むしろ少しだけ、現実が重くなる。
3
負け続けると、人は数字に詳しくなる。
合算。
REG。
ブドウ。
グラフ。
私はいつの間にか、台の中身よりも自分の言い訳を研究するようになっていた。
BBに寄れば、こう思う。
「REGはそのうち付いてくる」
ハマれば、こう思う。
「そろそろ収束する」
財布が軽くなれば、こう思う。
「今日は取り返して帰れる気がする」
どれも、希望の顔をした嘘だった。
4
その日も、私は負けていた。
朝から打って、グラフはずっと下。
プラスに触れたのは最初の一瞬だけ。
あとは、じわじわと削られる。
ジャグラーは、派手に殺さない。
静かに、確実に、削ってくる。
夕方。
残りの紙幣は一枚。
私はその一枚を、まるで護符みたいに握っていた。
「あと一回、光れば」
そんなことを、まだ思っている。
自分で自分が嫌になった。
5
そのとき、隣の台が光った。
若い男が、軽い手つきで7を揃える。
彼は笑っていた。
楽しそうだった。
私はその笑いを、少しだけ憎んだ。
いや、正確には、憎んだのは自分だ。
楽しめなくなった自分。
光を「救い」だと思い込む自分。
私は、いつの間にか遊びを、祈りに変えていた。
祈りは、叶わないと苦しい。
6
レバーを叩く指が、少し震えた。
あと何ゲーム回せる。
いくらまでなら追加できる。
そんな計算ばかりが頭を走る。
そのとき、ふと——
“勝ちたいんじゃない”
という言葉が、胸の奥から浮かんだ。
勝ちたいんじゃない。
取り返したいだけだ。
取り返して、負けた自分を消したいだけだ。
私は、ようやく自分の正体を見た。
7
私は席を立った。
光らなかったからじゃない。
もう、光に頼るのをやめたくなったからだ。
たったそれだけの行為が、なぜか怖かった。
立った瞬間、背中が寒くなった。
「やめるの?」と、誰かに言われる気がした。
でも誰も言わない。
ホールは忙しい。
誰も、私に興味なんてない。
それが救いだった。
8
外は夜だった。
風が冷たく、思ったより静かだった。
ポケットの中には、わずかなコインの感触。
勝ちでも負けでもない。
でも、不思議と軽い。
負けたのに、軽い。
私は少しだけ笑った。
“正しく負けた”
そう思えたからだ。
9
帰り道、スマホを開き、メモに書いた。
「上限は一日一万円」
「REGが弱い台は追わない」
「イベント日以外は行かない」
たった三行。
でも、その三行が、今日の収穫だった。
ジャグラーで勝つには、光を追わないこと。
そして、人生もたぶん同じだ。
次回予告
次回、【第2話】抽選7番の慢心。
良番は、本当に勝ちなのか。
番号は、私を救ってくれるのか。
それとも——落とすのか。




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